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社員 奮闘記ブログ

苦境の中、手を取り合って乗り越え、日比建設は発展した <前編>

2019.4.1

日比建設社長インタビュー

合同会社日比建設の代表取締役を務める日比靖仁。若かりし頃から「いつかは自分で事業を立ち上げたい」と考えていたというが、日比建設創業に踏み切るまでには、どんな経緯があったのだろうか。

1. バブル経済と忙しない日々

社会人一年目、日比は父親の建設会社で働いていた。社長である父親と弟に加え、もう二~三人の社員がいるだけの環境だったため、会社らしい雰囲気はほとんどなかった。バブル黎明期で工事の依頼は非常に多く、入社から数年は月に二日間の休暇を取得しただけで「すげぇ、今月は二日も休めるぞ」と話すほど忙しかったという。

その分、給料は高額だった。父親は自家用車を毎年買い替え、仕事用のマイクロバスも新しいものに替えた。また、建売住宅に住んでいたにもかかわらず、さらに広い住宅に引っ越したり、伊豆に自宅を購入して運転手付きのBMWで都内まで通勤したりもした。まさにバブルの栄華である。当時は誰もがそんな生活を送っていたのだ。

2. 絶望のどん底に

しかし、バブル崩壊と共に、贅沢に溺れる日々は終わりを迎える。気前よくお金を貸していた銀行が、急に返済を要求し始めたのだ。多くの人が一転して多重債務者となり、日々の暮らしもまともに送れなくなってしまった。日比の父親も似たようなもので、会社が借金まみれになってしまい、経営が困難になったのである。本来ならば借金を返済すべく奮闘するか、もしくは倒産を受け入れるか、どちらかを選ぶべきなのだろうが、父親は三つ目の選択をする。借金返済から逃げ、そのまま行方をくらませたのだ。

社長の失踪に、家族はもちろん、社員も困惑するばかりだった。そんな中、日比だけは冷静に事態を受け止めていた。

立場上、仕方がないか」。

父親の会社を引き継いだのである。そのまま経営を続けても先は見えていたため、当時の社員と新たな会社を立ち上げることで、再スタートを切った。これが日比建設の始まりである。

3. 父親のしがらみ

創業後、最初のハードルは融資の取り付けだった。そもそも創業直後の会社は、銀行から融資を受けられない。何の実績もないため、信用保証協会に身分を保証してもらう必要があるのだ。そのため、日比も協会に出向いたが、そこでまたしても父親に苦しめられる。

「別の会社の役員になっていませんか?」

父親が信用保証協会から保証を受ける際に日比の名義を無断で使用し、役員として申告していたのだ。その会社は銀行に3000万円の借金があり、役員である日比は返済しなければならない。そうでなければ、日比建設は融資を受けられないからだ。

「300万円を借りるために3000万円を返さないといけないって、どういうことだよ」。

釈然としない思いを抱きながらも、親戚に頭を下げて回り、お金を借りるしかなかった。

4. 苦難は終わらない

その後、社員が増え、経営もある程度は安定するが、未だ楽観視できる状況ではなかった。日比建設を取り巻く状況が、年々悪化していたからだ。工事単価は年を経るごとに落ちていき、結果的に売り上げも減少の一途を辿った。また、起死回生の一手としてリフォーム事業を始めたり、学習塾を開いたりと新規事業を立ち上げるも、会社全体の収益増加には繋がらなかった。残された予算もじわじわと減っていき、真綿で首を絞められるような苦しさが続いた。そして、2010年頃に経営不振はピークを迎える。

「『潰れる』と覚悟するほどお金がありませんでした。その日に稼いだお金で、翌日の支払いを済ませるという状況で、社員の給料や家賃を払うのにも必死でした」。

全ては自分の力不足が原因だと分かってはいても、辛い気持ちはなくならない。誰にも相談できず、何をしていても情けなさに苛まれた。

そんな時、心の支えになったのが社員たちだ。経営不振のために、日比は社員の面倒を満足に見てやれなかったが、それでも彼らは不満も漏らさずに付いてきてくれたのだ。

「現場は任せっぱなしで、給料も上げられない。それなのに懸命に働いてくれた。彼らのおかげで、今があります」と、感謝の気持ちを表す。

このように、苦境にあろうと、手を取り合って乗り越えたことで、日比建設は発展していったのである。

(後編に続く)

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